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2005年3月30日 (水)

交通安全用の1曲。

ひとり資料を見に行った帰り、高速の渋滞に遭った。掲示板を見たときは、他所の情報が出ていてそれと気付かず、行きはスンナリ走れたからと、全く警戒していなかった。そう、間抜けにものってしまった私が馬鹿だった。それは確かにそうだけど、あぁ、一宮~小牧の1区間で3時間以上! 降りようにも降りられない。
日本が銃社会でなくて良かった、と心底思った。念のためにと、事前にトイレに行った自分もしっかり褒めた。
でもでも、車中でひとり、沸々と煮えたぎる怒りを抑えられない。余裕をもって出たのに、約束に間に合わない。チョロチョロ走る、ではなく、ピタッと止まって数分動かない!の連続だから、携帯通話もラクラクかけられる。高速走行中に携帯で話したからって、嬉しくも何ともない。
電話口で家人が言う、「今日中に帰って来られるぅ~?」。帰れなくてどうすんだい!!
同じ姿勢をとり続けたためか、冷め切らぬ怒りのためか、頭の先からつま先まで、ひとつ残らず芯から凝り固まった。マズイ! 感情ひとつコントロールできない自分が情けなかった。料金所のおじさんに無言でしか接することのできない我が身の未熟さを反省した。車中で鎮静効果のありそうなCDを試したけれど、どれもいまひとつだった。以後、崩れた体調はなかなか戻らなかった。
漸く復調したここ1週間。そこで考えた。血圧を下げるCDを買おう!
で、宇崎竜童を買った。(←よく分かんない趣味?!だって。ほっといてくれぃ)。
かつて、宇崎サンの1曲に、テレビの前でひとりウェンウェン泣いた。不意を突かれた感じで、なぜか涙が止まらなかった。歌は上手くないし、音はしょっちゅう外すし。けれど、阿木さんの世界にしっかり染まったときは、そういう下手さを超えてしまうところがある。そもそも、巫女のような阿木サン(たしか彼女のお母さんは、新興宗教の教祖様だったはず。さもありなん、だな)の近くにずっと居続けられる宇崎サンが、以前から私は好きだった。
というわけで、初めて彼のCDを買った。この1枚、いや1曲があれば、アクセルに足がかかることはないだろう。血圧も、きっと上がることはないはずさ(←理解不能の人、もういいの。ほっといて)。大切なのは安全運転なんだから。
あっ、どの曲か?って。掲示板にでも書き込んでいただければ、当たった方に秘かに粗品を差し上げます(笑)。

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2005年3月16日 (水)

読み書き計算ができないのも〈個性〉?!(2)

そもそも諏訪さんの本を読んでいて、思い出すところがあったから、このタイトルを付けたのだった。
『オレ様化する子どもたち』の終章には、「個性化」と「社会化」の問題について次のように書かれている。

「個」が自立するまえに「個」を超える「普遍的なるもの」に出会う必要があるし、そういう「普遍的なるもの」によって「去勢」されなければ、「個」は自立しようがない。(中略)「個性」は、「社会化」される過程で、「社会化」に還元されないその「個」の個別性として浮上してくるものである。

そりゃそうだわさ。ほんと、何かって言うと「個性」「コセー」って喧しくっていけないよ、まったく。
かつて子どもが低学年の時、担任の先生が、書き取りができなかった生徒数名を20分ほど居残りさせたことが1度だけあったらしい。2度目がなかったのは、先生曰く、「保護者に苦情を言われたわけではありません。それ以前に、そもそも職員室で批判されました。勉強ができないのは個性だから、それをわざわざ直す必要は無いと」。うっ、うう。
おそらく同僚が批判した理由は様々だったと思う。けれど正面切って、「勉強ができないのも個性だ!」と言い放った教師がいたことにちょっと驚いた。もちろん人間の能力は不平等なものだから、いわゆるお勉強が苦手な子どもがいるのは当然だし、頑張ったってできないもんはできないよ。我が身に照らしても、そりゃそうさ。けれど、読み書き計算レベルで〈個性〉を持ち出されたんではね~~。あなたどう思います? いつから〈個性〉は免罪符になったのでしょう? ここまで偉そうに大きな顔して闊歩してる〈ひ弱な個性〉、ほんと目障りです。
とは言え、私がこうしてあれこれ書き連ねているのは、いざというときに怯まない心の準備のためなのよ。教師は素(す)でやってはいけない! 諏訪さんの言はその通りだけれど、大人だって生身の人間ですもん。

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読み書き計算ができないのも〈個性〉?!(1)

諏訪哲二『オレ様化する子どもたち』(中公新書ラクレ)を読んだ。この諏訪さんという方は、01年に定年退職された元・高校教諭で、「プロ教師の会」代表とのこと。私は知らなかったけれど、「プロ教師の会」は別冊宝島で刊行された「ザ・中学教師」シリーズで話題となった教師の研究会だそうである。とは言え、そうした経歴から本書を手に取ったわけではない。「オレ様化」という言葉と、中にあった夜回り先生こと水谷修氏の表情を評した一節にちょっと納得するところがあったから。水谷氏のこともニュース番組の1コーナーで知った程度だけれど、あの表情は印象的だった。だからついつい購入した。
そして結局、一気に読んだ。諏訪さんの筆致に、いわゆる“熱血教師”的な匂いがほとんどないからかもしれない。しばらく前に友人に勧められて読んだ土井隆義『「個性」を煽られる子どもたち』(岩波ブックレット)や香山リカ『就職がこわい』に通じる子ども観が、より言葉を費やす形で記されていて、その意味では理解しやすかった。
前半では「新しい子ども」の誕生が説かれ、後半では「教育論者の子ども観を検証する」と称して宮台真司・和田秀樹・上野千鶴子・尾木直樹・村上龍・水谷修、以上6氏の主張とそれへの批判等が記されている。取り上げられた各氏の〈主張〉が正確かどうかはひとまずおくとして、いわゆる〈大学教員〉が口にしそうなことへの批判には、思わず苦笑いしてしまった。諏訪さんは、「どの論者も子ども(若者)たちがほぼ文化的な「他者」になってきているとは考えていない。自分たちと同じ文化(価値観)の領野のなかにいると考えておられる。果たしてそうなのだろうか」と問う。6人すべてが同じ認識とは個人的には思わない。けれど、すでに子ども・若者たちは自分たちと同じ意味と公共性の世界に住んでいない「他者」であることを大人は認知しなければいけない、という諏訪さんの主張は納得できる。
客観的な事実(科学)よりも「この私」の感覚のほうを大事にする。「自分」に合った、「自分」にとって不快でない、「自分」が傷つけられることのない、つまり教師が上位にいない関係を望む。そうした子どもたちがもうすぐ、いやすでに大学にやって来ている。

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2005年3月13日 (日)

ちょっと違う世界を。

漸く田中純『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』を読み終えた。本来なら集中的に埋没すべきなのだろうけど、なかなかその時間がとれぬまま、行きつ戻りつし、おまけに基礎知識が絶対的に不足しているから、ちょっとしんどかった。とは言え、結論ではなくどうそれを論じて行くかという方法の点で参考になる、とこの本を勧めてくれた人の意図がなんとなく分かる気がした。「古代の再生」「古代の残存」を研究の主題とするヴァールブルクについて書かれた従来の伝記が、彼が精神錯乱状態であった時期を回避しているのに対して、そうした魂の彷徨もまた彼の学問的見解と連続したところにあるとの立場から、本書の構成もなされている。
たとえば、「ヴァールブルクが恐れつつ深く魅せられたのは、かたちなきものにかたちを与えることで不安を鎮めるとともに、そのかたちが人間を呪縛してしまうという、イメージに内在するこの両極的な力にほかならなかった」と言われれば、分かりやすいよね。あるいは、世阿弥の『井筒』を例に、男装した紀有常の娘の亡霊がのぞき込む井戸の水面、そこに映し出された自分の姿に恋人業平の「おもかげ」を偲ぶ。女の姿を写す水面が「現在」、その奥にある水の深みが思い出となった「過去」であるという時間の構造、と例えられれば私には理解しやすい。
ただ、著者はとっても控えめな方のようなので、私なんぞが理解できたのは表層的なところなのだろうとも思う。こちらの理解力不足により「おすすめ」には挙げないけれど、以下のサイトで、ヴァールブルク最晩年のプロジェクト「ムネモシュネ」の図像群が紹介されているので、興味のある方はどうぞ。
http://www.mnemosyne.org/
一昨日、衝動的に注文した平原綾香「The vois」がさっきアマゾンから届いた。それを流しながら図像を見ていたら、ナント雪が舞い始めた。おぉ!
さて、次は何を読もうか。美術つながりで玉蟲敏子『生きつづける光琳 イメージと言説をはこぶ《乗り物》とその軌跡』が良いかな。う~ん、至福の時よ♪

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2005年3月 6日 (日)

名簿は重い(2)。

3年前、私の職場であるN大学の文学部に同窓会が設立された。以前にも同窓会組織はあるにはあったらしいけれど、ずっと休会状態だったそうで、今回は新装?の設立と相成った。それに先だち、全学の同窓会も華々しく設立された。どう考えたって、独立行政法人化を前に、財政基盤の充実を狙ってのことと察しがつく。たとえば経済学部の同窓会は、長年しっかり維持運営されているそうで、それは当然理由があってのこと、今の自分に必要だからだ。これまで同窓生の親睦ってことに熱心ではなかった、しかも「文学部」が、突如として母校愛を求めるというのもちょっとどうかと私なんぞは思うのだが。なかには、文学部に来て頂いている非常勤講師にも、同窓会への参加を呼びかけようと提案する教員まで現れた。たまたま1年だけと頼まれた非常勤先で、同窓会費を出してくれと言われたら、あなたどうします? 
おまけに、私立大学と違って、同窓会に関わる組織というか担当者がそもそもいないから、誰に仕事が回ってくるかと言えば、もちろん下っ端の教員。一番の問題は「名簿」。ちなみに私の属する専攻には、卒業生を中心とする学会があり、年2回の会誌と年1回の会報発行、年2回の学会が開催されており、私はその事務局も担当している。つまり約1000名分の個人情報によって全学と文学部に新たに設立されたふたつの同窓会組織にも結果的に関わってしまう。もちろん、連絡が取れる会員には、情報(住所)を手渡す上での意志確認はしたけれど、やっぱり疲れる。
以前、学会の会費なんて支払うかっ!と怒りの手紙が届いたことがあった。借金取りに追われていて、送りつけられた催促状には微妙に違う番地が書かれてあった。思うに、その間違った住所を記載しているのはオマエノトコロ、つまり学会名簿しかない。だからそんなところの会費なんぞ払うものか! というゼンゼン理由になっていない怒りの文言が書き連ねてあった。たしかに以前は住所録を会員に配布していた。けれど、わざわざ金融業者に横流しなんぞするわけがないし、卒業生に取り立て屋がいたとしても、そこまで知るかっ。と言いたいけれど、言うわけにもいかないし。そう、この手の八つ当たり的苦情にしばしばさらされるのが事務局である。私の体調不良も、もしかしたらそうした言霊のせいかも?! ああ、クレヨンしんちゃんに出てくるネネちゃんのぬいぐるみが欲しいなあ~♪

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名簿は重い(1)。

昨日の午前中PTAの会議があった。今年度最後の会議だ! 漸くお役ご免となり、とりあえずはほっ♪ PTAなる組織のありかたと運営に関しては思うところがいっぱいあるけれど、それはひとまずおくとして、隔世の感だったのは個人情報に関わる決定である。
子どもが低学年のとき、クラス全員の氏名と電話番号を記した一覧表が配布されていた。中学年になるとそれは廃止になった。ただ、PTAの連絡網はあったので、保護者の名前と電話番号は分かった。そして昨日の会議で、PTA連絡網も廃止が決まった。だからたとえば、友人宅に遊びに行った子どもの帰りが遅い場合、まずは学校に友人宅の電話番号を問い合わせ、それから友人宅に電話をするというのが建前となったわけだ。
思い起こせば私の子ども時代なんて、住所はもちろんのこと、保護者の名前に勤務先や職種まで書いてあったっけ。それが良かったとは決して言わないけれど、教員の仕事はさらに増えるばかりである。
昨夏の野外学習の折り、臨時に緊急連絡網が配布された。見ると子どもの名前を真ん中にして前後1名ずつの電話番号、つまり3名分だけが書かれていた。担任の先生はこれを40名分手書きしたことになる。たしかに個人情報は保護されなければならない。けれど、いまだ1クラス40名の小学校で、日々忙殺されている先生を見ていると、心中複雑である。先生の中学生になるお子さんが、「我が家の問題」を書いてくるようにと宿題を課せられ、「お母さんの帰りの遅いこと」と書いて提出したそうだ。可笑しいような、いや、悲しいな。土曜日もほとんど出勤だもの。
面談の際には、ついつい「先生、過労死しないで下さい」という言葉が口を突いて出る。保護者が、「倒れないで」と切に担任の健康を願う状況って、どう考えてもおかしい。けれど、熱心な先生ほど、「子ども達のため」ということで、仕事を増やして行くし、それをサポートする人員も、いまの学校では確保できない。
漸く我が町でも、新年度から35人学級となる。とは言え、35人じゃ、そもそもダメなんだけど。おまけに、それが適用されるのは新1年生のみと言われては、がっくり力が抜ける。ちなみにウチの子の学年は、昨日現在79名。またしても、1クラス40名なのです。

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