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2005年4月22日 (金)

「受け止めること」と「手放すこと」(2)。

人生というのは面白いもので、その人が苦手とする課題を、克服できるまで繰り返し目の前に起こしてくれる。形は多少変わっても、できるまで、繰り返し繰り返し。
だからといってそれは、決して超えられないほど高いものとして、困難なものとして、現れるわけではない。少しの勇気を持てば、超えられる。自分を信じ、自分のことを思っていてくれている人たちを信じることができれば、必ず克服できる程よいところに設定してある。
そして、勇気を出して飛び越えてみると、俄然、気持ちが楽になる。いまま自分が拘ってきたものや、人が、何だかとっても滑稽に見えてくる。どうでもよくなってくる。そればかりか、同じように乗り越えて来た人たちが見分けられるようになるし、そういう人に新しく出会えることもできる。類は友を呼ぶってことかな。なんせ彼らは常に微笑んでいるから、すぐにそれと気付くことができる。
もちろん、また新たな課題がもたらされるけれど、この人生のからくりに気付いて、飛び越えることができれば、次なる課題を前にしても、「今度はその手で来たか」、と少しの余裕はもてるというもの。
結局のところ、人との距離感に悩んだと言ってはみたけれど、そもそもそれは初めから、人の問題ではなく、私の克服すべき課題だった。そのことを受け入れ、拘る私の感情を手放したとき、楽になったというだけのことなんだな、きっと。

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「受け止めること」と「手放すこと」(1)。

ここ数年、なかなか克服できずにいたことがある。
たとえば、私個人が招いたこと、あるいは図らずも私の身に生じたことについては、それを迎え撃ち、乗り越えるだけの気力も知力も、それなりに持ち合わせているつもりだし、すべてとはいかないまでも、何とか乗り越えてきた。けれど、身近な人、とくに学生や院生がある種の困難にぶちあたったとき、彼らとの距離をいかに保てばよいのか、測りかねていた。
彼らの話に耳を傾け、そのやり場のない気持ち、怒りや哀しみの感情に私自身が共鳴してしまうと、必ず私は体調を崩した。その度に、ヒーラーでもある整体師さんから言われたのは、「人の感情を受け止めることは大切だけれど、受け入れてはいけない」ということ。
簡単そうでいて、これは結構難しいことだった。私には何ができて何ができないのか、それを冷静に見定め、できないと判断したことについては、その事実を正直に認め、受け入れなければならなかったから。
「誰かを救う、救う力が私にあるなどと、不遜なことを思っていたわけではない」と口では言ってみるものの、ならば天地神明に誓って、百パーセント「不遜な思い」など無かったのかと問われたら、一瞬の躊躇いがそこに生まれる。「相手の身になって」、「相手のために」と言いつつ行うことのなかに、そうする自分に酔っているところがあったのは、紛れもない事実だから。
当たり前のことだけれど、人が人を変えることなどそうそうできることではない。できるのは、ただ、自分を変えることだけ。憤り、苦しんでいる人を前にしても、それは同じだろう。私にできるのは、彼らの話を、遮ることなくただただ聞くことであり、その感情を受け止めること。そして、苦しい状況を乗り越える上でどのような方法があるのか、考え得る限りを提示し、私のできる範囲で協力支援すること、そこまでだ。
もちろん、彼らがどれを選ぶか、どれも選ばず現状に留まる場合も含め、最後の決断は彼ら自身の手でなされなければならない。そうでなければ、そこに支配の関係が生まれてしまう。
人に支配などされたくないと思っている私が、人を支配して良いはずがない。


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2005年4月17日 (日)

晴れの舞台(2)。

法事に参集する親戚の平均年齢は、軽く70歳を過ぎているから、いかにぽっくり行くかが関心事のひとつである。とは言え、こればっかりはなかなか思うようにいかない。私だって、自分の葬式くらい自分で仕切りたい。けれどそれはできない相談ってもの。あぁ、なんとも残念!
ところで、研究会でご一緒するH先生が、「奇書」と評していた高橋繁行『葬祭の日本史』(講談社現代新書)を読んだ。面白い! やっぱり葬儀屋というのは奥深い仕事だ。冒頭で紹介されていた遺体運搬人の挿話。遺体を載せたストレッチャーがエレベーターに入らなくて、彼は遺体を背負って遺族の待つ部屋へ。出迎えた水商売の娘さんが遺体に声を掛ける。
「まあお母さん、最後に若い男の人に抱いてもらって、よかったねぇ」。
運搬人の彼曰く、「なに、死体はラクです、生きている人間とちがって悪さしないから」。ホント、全くだ。

ところでみなさん、「大阪流の姿焼き」って知ってますぅ~? 大阪市の北斎場は専門業者の間で焼き上がりが美しいと評判なんですって。称して「大阪流の姿焼き」。特別のノウハウがあるらしくて、頭から足先まで綺麗に形を残すそうな。火葬技術者は秘かな誇りとしてる由。民営が大半を占める東京は火葬料金に応じてランクがあり、「特殯」はバーナーが二つ、奥と手前にあるのでまんべんなく焼ける。まあこちらは、技術者の腕、誇り、ではなく、金の問題というわけね。
金の問題と言えば、我が家の母は、金色の入っていない紫檀の霊柩車に乗って、地元の火葬場ではなく市内のY火葬場で焼いて欲しいという。そこでちらっとHPを覗いたら、市民でない場合はプラス5万円だって。まあお望みならば叶えて差し上げるけれど、いつも混んでいるY火葬場じゃあ、晴れの舞台とはいかないと思うのだけど、ほんとそれで良いのかな?!

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晴れの舞台(1)。

今日は我が家で法事があった。祖父の27回忌と祖母の13回忌。ダブルだったので、両親はいつにもまして力が入っていた。歳とともに体力は落ちる。なのに拘りだけは捨てきれないんだよね~~。「最初に出すのはこの和菓子とお抹茶」に始まって、「これはこれでなければ・・・・」の連続。惣領娘としては、「ホントどうでも良いじゃん、そんなこと」の言葉を飲み込んで、「好きなようにやってくれい」とフォローしながら見守るしかない。まあ、拘るだけの体力が戻ってきたと思えば、有り難いことではある。
そもそも法事や葬式、人の死に関わる儀式は、数年前から父にとっては晴れの舞台となった。今から10年前、当時65歳だった父は、突如家族に宣言した。
「出家する!」
継ぐべき寺はないけれど、祖父が坊主だったこともあり、父は幼いときに得度だけは受けていた。だから私はさほど驚かなかった。新しいお経のひとつでも覚えれば、惚け防止にはなるだろう、という程度。一念発起した父は、仏教大学の講習会に参加し、知恩院に赴き、所定の課程を終えた。滝に打たれる修行も、最高齢と言うことで免れたらしいし、親子、いや孫子ほどに年の違う寺の二代目三代目の若者に労られつつ、何とか僧籍を得ることができた。たまたま幼なじみが近隣の寺で住職をしていたので、いまはそこに所属し、寺の諸行事に参加している。
というわけで、我が家の法事も数年前から父が務めることとなった。別室で衣装替えをし、いざ登場。
やっぱり音痴は読経でも同じ。「まあ、好きなようにやってくれい」である。


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2005年4月15日 (金)

楽しきかな、共同助手室♪

2002年、私の職場は大規模改修工事を行い、それを機に助手は個室を召し上げられ、共同助手室に入ることとなった。あれから2年半、月日が経つのは本当に早い。個室に慣れた人にとっては、多少の苦痛を伴う移動だったかもしれないけれど、私なんぞはそのあたりを全く気にしない人間なので、むしろ今の方が快適である。助手はそれぞれ専攻を異にするから、まずその意味で刺激的だ。
加えて、同年代の女性が私を含め3人いるので、とにかく話題が尽きない。男性陣にとっては、かしましい我々に忍耐の日々かもしれないけれど・・・・・。
お昼時ともなればお弁当を持ち寄り、美容と健康ネタから始まり時事放談その他もろもろ。
中央アジアを股に掛け、何十キロもある機材を背負って調査に出かける同僚の後ろ姿には、同性ながらほれぼれするよ。天安門に装甲車が突入する直前まであの場所にいた、なんて歴史の生き証人の話、そうそう聞けるものではないもんね。
かたや移民史を追う同僚は、在日の人に聞き取り調査。もう何十年も同じ土地に住み続け、地域の活動にも積極的に参加しているにもかかわらず、町内会の役員分担では在日の人は防犯担当から外されるって。いままで想像だにしなかったこと。見えない差別の存在に、3人憤って話しはなかなか終わらない。
さてさて、南米の調査から戻った助手さんが、かしまし娘?たちに恒例のお土産、珈琲豆とテキーラを差し入れしてくれたよ。外は桜吹雪、午後のお仕事、もうひとがんばりしましょうか。

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2005年4月 8日 (金)

先生、よろしくお願いします(2)。

そこでちょいと、学生になってみる時間を作った。授業料も払っていないのに、勤務中なのに、とどうか言わないで。勤務時間延長は毎度のことなのだから。
昨年は手始めに中国哲学の授業に参加した。道教がご専門のK先生のもと、『高僧伝』の講読である。助手は透明人間扱いだから、当てられる心配はない。赤鉛筆片手にひたすら訓点を付けて行く。そう、横文字はやっぱり苦手だから、縦で行くしかない、縦!である。
今年はそれに加えて、中世和歌史論の授業にも参加することにした。十三代集を専門に研究されているF先生の授業。助手になって2年目から、私自身も1コマだけ演習を担当していて、ずっと『増鏡』を読んでいる。演習だから担当者の学生にそっくり委ねればよいものを、まだかまだかと待ち構え、ひとまず区切りがついたと見た瞬間、すかさずしゃべりまくってしまう。ほんと、我ながら「待ち」の無い人間である。ただ、和歌の場面になると、途端に寡黙になるんだな。その弱点を克服する、これは絶好のチャンス!なのである。
他専攻ならまだしも、同じ日本文学の、若輩とはいえ一応研究者が聴講するのはご迷惑であるとは重々承知しつつも、結局押しかけ聴講を許して頂いた。感謝、感謝。内容はもちろんのこと、授業展開やその他もろもろ勉強になります。学生の反応を見て、彼らの得手不得手も客観的に知ることができるしな~。
さてそのF先生が、論文の書き方を伝授するサイトを作っていらっしゃいます。ご興味のおありになる方は、ぜひご覧下さい。

「電脳式国文学研究入門」
http://www.kogakkan-u.ac.jp/users/fukatsu/

ところでゼンゼン話は違うけど、たしか明日は、野茂の今年初先発の試合があるはず。がんばれ~~~! 数が問題じゃあないとは言え、やっぱり果たして欲しい日米通算200勝! あたしゃ影ながらしっかり応援してるからね~~♪

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先生、よろしくお願いします(1)。

新年度が始まった。と言っても25日に卒業式を済ませ、翌週には在校生向けガイダンスがあったので、ず~っと続いている気がする。
そもそも助手というのは、「いついるか?」ではなく、「常にいる」が前提とされているから、PCの調子が悪い、トナーが無い、ゴミ袋はどこでしょう?等々から始まって、アルバイトの紹介斡旋、漠とした人生相談(私の場合、恋愛相談だけは経験がないな。悩んでいても無駄だという勘は働くらしい)何でもありだ。もちろん学会の事務もどっさりある。一応事務局と名乗っているが、実際は私ひとり。幸い、掲載論文が足りないという事態に遭遇したことはない。8本前後の投稿は常時ある。有り難いことである。締切を3月末に設定しているので、受理した順に査読者(匿名)に送る。1本に付き2名の方にお願いして結果を待つ。みなさんボランティアにもかかわらず、熱心に読んでコメントを下さる。これまた本当に有り難い。あとはコメントをもとに投稿者に結果を伝え、再審査が必要ならば再度その繰り返し。
授業がないぶん多少時間は空くとはいえ、3月と9月はこの作業がある。加えて、本や雑誌を閲覧複写にやって来る人が多いのもこの時期。居室は共同部屋だから、問い合わせは私とは限らない。先日も卒業生と称する輩が、「成城だか成蹊だか忘れたけど、紀要の○○号」と横柄な態度でやって来た。同僚が探した結果、該当誌は分かったものの、残念ながら欠号だった。詫びの言葉と共にその旨を伝えると、「国家財産が無くなるとはどういうことだ!」と抗議が始まった。そもそも大学の雑誌はほとんどが寄贈なので、厳密には国家財産ではない。ただ、検索可能で「所蔵」と表示されたものが無い場合、腹立たしいのは分かる。わざわざ遠方から来て下さった方には全くもって申し訳ない話で、平身低頭お詫びする。無駄足を踏ませぬよう、事前に問い合わせて頂くことを勧めてもいる。けれど今回は卒業生。ここのシステムは十分承知のはず。しかも助手はそれぞれの研究室から離れた共同部屋に押し込まれているのだから、見張っていろと言われても困る。無いものは無いのよ。悪いけど。抗議の声を机越しに聞きながら、同僚はみなじっと聞き耳を立てている。まあ、そんなこんなの週5日。ただ倦むことなく過ごす手段を考えるしかない。


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2005年4月 3日 (日)

ほころび始めた桜(2)

家の中のこまかなことや子どもへの小言など、めったと口にすることなく、煙草を薫らしながら穏やかに話すおばさんは、子供心にも「大人の女」だった。ほかの友だちのお母さんとはひと味違う、自信に溢れた人だった。飼い犬が年老いて後ろ足がきかなくなったとき、おばさんは家族のなかで一番親身に看病していた。前足だけでその後を必死に追う、そんな老犬の姿を、いまもはっきり思い出す。あのおばさんが、重い病の床にあるという。おばさんらしく、誰よりも強く快方を信じ、病と闘っているという。けれどそれを伝える彼女の言葉は、哀しみを帯びたままだった。

遊具の脇にちらほら立つ園内の桜は、あちらこちらでほころび始めていた。再び手元に目を落とせば、「見るべきほどのことをば見つ」という、あの知盛の馴染みの一節。けれど、最期まで希望を捨てなかったおばさんには、不似合いなせりふだな。きっとこの桜も、来年の桜も、おばさんは見たかったはず。介護者でもあった妻が旅立ち、残された夫のもとには、無念の思いを抱いたままの娘が通う。思い切り泣きたいはずの彼女に、いまはその時間さえない。
そう、30年前、ここで彼女と一緒にボートに乗った。途中でオールが外れ、どんどん離れたところへ流れて行き、慌てて2人、顔色を変えて漕いだっけ。あのときのことを思い出し、1500円のフリー券で6000円分を乗り尽くした貴理子2人を引き連れボート場へ。足こぎボートで有り余るふたりのエネルギーを消費させながら、ぼんやりあたりを眺める。池の畔の桜も、あとしばらくで満開となり、やがてひとひらひとひら散るのだろう。
できることならいつの日か、彼女とふたりでもう一度、ここでボートを漕いでみたい。今度はしっかりオールをもって、語り尽くせぬ思いと共に、静かな時を過ごしたい。

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ほころび始めた桜(1)。

今日は休日。でも春休み中。分かっているよ。私だって一応ガッコウと名の付くところに行っているのだから。
と言うわけで、子どもとその友だちを連れ、3人で東山動物園に行った。当初彼らは2人だけで行くと主張したけれど、慣れていないところだから今回は付き添うと強権を発動した。敵も然る者、「大切な日曜日。しなきゃいけない仕事があるんじゃないの?」と気遣うふりをする。そりゃたしかに、3月末締切の仕事があるよ(涙)。けれどここで引くわけにはいかない。家庭科の授業で実習したおにぎり作りの復習をさせ、あとはテキトーに詰め込んで、いざ出陣!
昨夜の予報が雨ということもあってかスキスキ。動物を見ながら園内の遊園地へ。フリー券を購入し、ほとんど磯野貴理子×2を放し飼いにする。ハハは無料休憩所で買ったばかりの板坂耀子『平家物語』(中公新書)を読み始める。やっぱり「お出かけに、新書1冊忘れずに!」である。しばし頁を繰る手を止めてあたりを見渡すと、遊具の8割り方は、かつて友人と訪れた30年前と同じだった。

彼女とは5年生の時に初めて同じクラスになったのだった。誕生日が同じということで親近感が沸き、理系・O型・おおらかな彼女と文系・A型・気にし屋の私は、ボケとツッコミを交互に担当する良き相棒となった。以来、夫の転勤で彼女が地元を離れた時もあったけれど、誕生日になれば互いの近況を伝え合うことに変わりはなかった。
そう去年の誕生日も、久々に電話で話した。その直後、母の病気が見つかり、検査も兼ねた入退院が繰り返され、結局12月に大きな手術を終えて漸く退院した。けれどそれから2週間と経たぬ間に、今度は父が体調を崩し、年明けの入院手術が決まった。あれこれ話したいけれど、ただでさえ慌ただしい年の瀬、そのまま静かに新年を迎えた。
いつもなら元旦に届く彼女からの賀状が、今年は数日後だった。そこには、両親がともに入院中だとあった。同じ誕生日だから? こんなにも似た状況にあるなんて。二つの病院を往復し受験生を抱える彼女を思い、携帯電話のメールアドレスを伝えた。すぐに返信が届いた。画面に映る言葉は、ひとつひとつが胸に染みる。あのおおらかな彼女は、いつしか詩人になっていた。おかあさんの、そうあのいつも前向きだったおばさんの、病状の深刻さが察せられた。

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