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2005年5月21日 (土)

ついでに昔話。

そうだ、前のブログでふれた某女子短期大学の話を書いておこう。
私が初めて働いた「大学」と称するところ、I 短大は、ハダカ祭りで有名な Kの近くにあった(ちなみに現在のイニシャルは違います)。挨拶を兼ねた面接で、緊張する私に学長は明るく言った。
「子どもたちに、よぉ~分かるように、説明したってちょ~だひゃぁ~」。いまも耳に残るあの名古屋弁。ご希望とあらば、しっかり再現させていただきヤスぜっ。
校舎内は土足厳禁、着ている学生は少なかったけれど制服あり。いざ教室に入れば、すかさず「キリーツ、レイ、チャクセキ」、続いて「ガッショウ」。「ガッショウ?」、そう、私はみんなに「合掌」されちゃうわけです。もちろん合掌の対象は私ではないのだけれど、みんな一斉に前方に向かって手を合わせるから。もちろんこのご挨拶は、私の授業では早々に略していただいたけど。
そうここには、紡績会社で働きながら3年かけて卒業し、おまけに資格(保育士・幼稚園教諭)もとれますよ、という言葉に誘われて、九州や沖縄からやって来た勤労学生もいた。彼女たちは早番と遅番(早朝6時から工場で働き、勤務時間終了後に午後2コマの授業を受けに短大にやって来るグループと、授業を受けたあと工場に戻り、夜10時まで働くグループ)とに分けられ、それは週ごとに交代となっていた。工場のバスに乗せられて通学してくる彼女たちは、土日を除けば、生活すべてが会社の管理下にあるわけで、まさに「現代版野麦峠?!」だった。
とは言えエネルギー溢れる乙女たち、化粧っ気がないぶん、ふつうの女子学生より綺麗だったし、10歳と離れていなかった私は、彼女たちに教わることの方がはるかに多かった。意地悪だったりスケベだったりする上司のあしらいかたとかもね。
それまでも、帰国子女がほとんどの中学・高校で、2歳と年の違わない、あるいは、愛らしく誇り高い、カンボジアやベトナムからの難民たちに会い、自分の未熟さ甘さはそれなり思い知らされていたけれど、それに加えて彼女たちに出会えたことは、いま振り返っても本当に幸いだったと思う。ハタチそこいらから以後ずっと、「先生」って呼ばれることに慣れきった人間なんて、ろくな者じゃないもん。川柳にもあるじゃない、「先生と、呼ばれるほどの馬鹿じゃなし」って。お給料ちょうだいしながらそれを教えてもらったこと、感謝しないとね♪


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2005年5月20日 (金)

さぁそろそろ、つぎ、行ってみようかぁー!

友人たちと作った日本語表現テキストの印税が入金された。1年半ぶりの今回は194,372円ナリ! メンバー6人で均等割してひとりあたり32,000円。2001年春『書き込み式 日本語表現法』(定価1600円)、2004年春『書き込み式 日本語表現ノート』(定価1200円)、いずれも初刷の印税は現物支給で謹呈本に回したので、現金を頂戴したのは2刷から、印税総額は537,806円となった。
宣伝活動もみんなで分担して、結構がんばったよね♪
いまならば、(日本人向け)日本語表現の授業は珍しくはないけれど、私が初めて某女子短期大学で日本語表現に関わる授業を担当した10数年前は、使えそうな参考書を探しても、なかなかコレっていうものが見つからなくて、本多勝一『日本語の作文技術』を自分なりにアレンジしてなんとか凌いだのだった。練習問題は絶対的に不足していたし、身近な例として挙げる新聞や雑誌記事の収集もひとりではなかなか思うようには進まなかった。
そこで数年後、「文章表現」や「日本語表現」という題目の授業を担当することになった友人たちと、「いっそのこと自分たちで作っちゃえ!」と、ワイワイ意見を出し合いながら作ったのが『書き込み式 日本語表現法』だった。幸い、主に日本文学の専門書を出版している知り合いの書店が、テキストならば大歓迎ということで出版を引き受けてくれた。そう、ごくごく限られた人間しか読まない専門書を出してくださる書店だもの、潰れてもらっては困る。ささやかでも利益をあげていただいて、専門書の出版を継続していただかねばっ。
あの頃の合い言葉は、「印税で、カニ、食べに行こう!」だったな。 パフィーが流行っていたんだっけ? コストを削減して少しでも定価を下げようと、表紙と目次を除いて残りはすべてオフセット印刷でいけるようにと、みんなでシコシコ打ち出したよね。文字だけでは寂しいからと、高校教員のメンバーが顧問をしている美術部の学生さんにお願いして(もちろんアルバイト代を払って)、ご当地にちなんだ挿絵を描いてももらった。
あの頃20代だったメンバーも、しっかり30代に突入しましたね。
そして今年、強力な新メンバーの参加も決まり、作ります! 読んで見て楽しめて、使える日本語表現の新しい1冊。乞う、ご期待!!
(って宣言しないと、なかなか発進できないもんね。だからここにしっかり書いちゃうことにします・・・・笑)。


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2005年5月 8日 (日)

やっぱり最後は「感謝!」が良いな。(3)

私の父方の祖母は、亡くなる少し前の病床で、亡き夫(祖父)から受けた辛い仕打ちを口にし始めた。突如として始まった、しかも日に何度となく繰り返されるそれに、家族は驚き唖然とした。入院に伴って静かに進行した認知症のなせる業だったのだろう。ひとたび開いたパンドラの箱は、意識がなくなる直前まで、決して閉じられることはなかった。
いっぽう母方の祖母は、若き日に空襲で夫を亡くしたためか、夫への恨みを口にすることはなかった。けれどそのかわり、自分と、そして残された子どもたちの保護を、長女に求め続けた。ある日、「私が結婚すると言ったらどうする?」と娘(伯母)が尋ねたら、「私も子どもたち(長女を除く6人)を連れて一緒について行く」と答えたそうだ。
ふたりの祖母、それぞれに楽しい思い出はたくさんあるけれど、歩んできた人生を想像すると、思わず胸が痛くなる。親と子は互いに選ぶ余地のない縁であり、明治生まれの祖母たちにとっては、夫婦の縁もそれに等しいものだったのだろう。そして血縁を超えたたとえば友人関係などは、見出すことも、維持することも、困難な環境だったのかもしれない。
けれどいまに生きる私は、自分で選択できる人間関係にあっては、信頼に基づく、そして感謝の思いに満ちたつながりを築きたいと思う。それができないのならば、つながることなどそもそも必要ないだろう。難しいことかもしれないけれど、そうありたい。

ところで話は飛ぶけれど、今日は移動の車中でずっと、平原綾香の歌う「蘇州夜曲」を聞いていた。懐メロの番組で何度か耳にしたことはあったけれど、改めて聞いて、その歌詞にうっとりとした。夢のひとときを願う恋の歌だったのね♪ 若き日、祖母も、そしてもしかしたら母も、ひそかに口ずさんだのかもしれないな。そう思うと、より一層、切なく聞こえてくるような・・・・。

さて、先にご紹介した信田さよ子さんのブログは以下の通りです。

http://www.hcc-web.co.jp/blog/

6日付「ライノベ対談・鉄道事故」と題されたブログも面白かったです。ご興味のある方はぜひどうぞ。

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やっぱり最後は「感謝!」が良いな。(2)

ならば一方の、このブームを歓迎している家族、とりわけ夫の内面に横たわる思いとはいかなるものだろうか。その点に関する分析は、みなさまそれぞれに『論座』をご覧頂くこととして、大筋では納得しつつも、私にはひとつ気になる点があった。
信田さんは、いまはまだ非政治的カテゴリーに止められている韓流ブームの今後について、ふたつの可能性を提示している。すなわち、海の向こうという「距離によって支えられるファンタジーにしがみつくのか、ハングルを学ぶことでいまだ精算されてはいない歴史的現実に直面することになるのか」、そのいずれかだと。そして、「言語習得はあらゆる文化交流の基礎」である以上、そこに「希望を託したい」と。
もちろん私自身もその可能性を願いはする。けれどもしかりに、彼女たちの多くが、信田さんの指摘する澱 ― 結婚に託した夢の不充足感は抑圧され、「守って欲しい」願望は満たされる可能性もないまま深く深く沈殿する ― を心の奥底に抱えたままであるならば、「歴史的現実に直面する」という希望を彼女たちに託すことに無理がありはしないか。
「現実には存在しない「夢の男」」を夢想し、恋い焦がれる前に、まずは目の前の身近な現実を直視すること。所詮自分のことは自分で守るしかないと思い切ること。そうした潔さを身につけることの方が、先ではないのか。

「あなたを保護したがる男には要注意/彼は彼自身以外の一切からあなたを保護するつもり」と言ったのはエリカ・ジョングだけれど、そもそも人が人を保護することなどできはしない。所詮、男は男でしかなく、当然ながら、女も女でしかない。大の大人が、対等でありたいと一瞬でも思った他人に対して、「父」や「母」を求めても仕方ないと思う。
だからもし、私が夢想し希望を託すとすれば、それは男女を超えたその先にある、人としての生き方、そこに寄せる信頼だけだ。(ちょっとカッコ付けて言っちゃうとね・・・・・笑)。
もちろんそこに多少の色気が加われば、それにこしたことはないし、人生はよりいっそう楽しくなるでだろう。まあそれで十分!良いではないか、というところ。むしろ「愛情」と読み替えられる支配や依存には、できるかぎり敏感でありたいとの思いを新たにするだけだ。

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やっぱり最後は「感謝!」が良いな。(1)

GW中ネットであれこれ見ていたら、臨床心理士の信田(のぶた)さよ子さんが、いわゆるヨン様ブームについて『論座』(2005年4月号)に文章を寄せていることを知った。で、GW明け早々、大学図書館で『論座』をはじめて手にとった。題名は「ヨン様は日本の家族の救世主だ」。一見表層的な中身を想像しそうだけれど、実は深くて面白かった。
そもそも私自身は「冬のソナタ」を見損なったし、ペ・ヨンジュンを見て気になるのは、あの歯科矯正代くらいのものだから(←いま、子どもの歯を矯正中なので)、何も語れない。けれど、このブームによる経済効果は2000億円を超えるらしいし、延世大学での映画撮影にエキストラを兼ねて参集した日本の女性2500人!の映像を目にしてからは、遅まきながら、やはりしかるべき分析が求められる社会現象だとは感じていた。

信田さんはまず、ブームを支える中高年女性を、マスメディアは「あまりにイノセントな存在」と過小評価しているのではないか、とその報道姿勢を疑問視する。なぜなら、信田さんにとってペ・ヨンジュンに熱狂する日本女性の姿は、イラクのアブグレイブ捕虜収容所でイラク人男性に向けて行使されたアメリカ軍女性兵士による虐待を想起させるものだったから。「更年期障害のおばさんの男狂い」と評するマスメディアの論調を巧みに取り込むことで、彼女たちは自らの行為(聖化と蔑視、愛玩と支配)に免罪符を与え、それを不可視にしているのではないのか、と。

曰く・・・・・

日本の男(夫)では満たされなかった庇護願望と愛玩する欲望を思う存分仮託できるのは、自らの圧倒的優位な立ち位置によってである。それは、相手が欲望を無抵抗に受け入れざるをえないという安心感があって初めて可能になる支配である。よく見れば、「子どものために」という大義名分によって子どもの人生に侵入し続ける支配と構造的には相似ではないだろうか。そして、性は異なるが無抵抗な女児を愛玩しグッズ収集に励む、ロリコンと呼ばれる一群の男性の視線とそれはどこか似通っている。


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2005年5月 1日 (日)

♪女の子だもん♪

アルフォンス・ミュシャ展に行った。展示2日目、GW直前だったので、会場は比較的空いていたし、油絵数点を除けば床に白線が引かれているだけで、つまりは監視員に気付かれなければ作品に迫れるわけで、それも嬉しかった。最後のブースにはミュシャが撮影した写真もあって、アトリエの雰囲気が伝わってきたし、なかには、ワイシャツに背広の上着を羽織りながら、なぜかズボンは履かずに澄ましてオルガンを弾くゴーギャン、なんてオマケもあって、楽しかった。モデルとしてポーズを付けられているミュシャの奥さんや娘さん、その横には愛人の写真も飾られていて、奥さんは逞しさ担当、愛人は美?か。趣味と実益はやっぱり兼ね辛いものなのね、とひとり納得もした。240点に及ぶ展示は、「ミュッシャ様式」が好きな私が心待ちにした、そして想像通り至福の時だった♪ 
ところで、そもそも私はなぜミュシャの絵が好きなのか? 
理由はその夜、子どもに誘われて観てしまったテレビ番組で分かったような気がする。
そっかぁ~、私、〈乙女チック〉が好きなんだ!
そう、1時間見続けてしまったのは、「アタック№1」。上戸彩が鮎原こずえ役の実写版。
アニメ版「アタック№1」と「サインはV」を観てスポーツ店に走り、バレーボールを買ったのが私の世代。品切れ続出だったもんな。稲妻サーブだって、従姉妹相手に公園で練習したし、回転レシーブだって、家族のいない隙を狙って、痣ができるくらい畳の上で励んだんだ。いま考えりゃぁ、阿呆だけど。
ちなみに「アタック№1」と「サインはV」、ふたつを較べたら、迷わず私は「アタック№1」派。だって、こっちの方が〈乙女度〉高いもの。
♪苦しくったってぇ~♪って、40過ぎようが、思わず歌っちゃうもんね。もう、胸キュンよぉ。みなさんにとっては気色悪いだろうけど。で、猪野熊監督役の船越栄一郎にツッコミ入れてます。
「火サスのなぎさちゃんの恋人役じゃぁないんだからさぁ~、その軽~い歩き方、やめてよね。表情見せちゃダメな役なのよ、あんたの顔はどうでも良いから、サングラス、真っ黒にして!」。
う~ん、来週も観ちゃうよね~~やっぱり。

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