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2005年11月25日 (金)

佐藤先生のこと(3)。

大学卒業後、再度の採用試験突破を目指し、まずは非常勤講師として働き始めた。赴任したのは帰国子女をばかりの中高一貫教育校。日々、新鮮な驚きの連続で、気付けば採用試験を受けることもないままに、3年が過ぎていた。
さてこれからの人生どうしよう・・・・。考えた末、それまでに溜めた僅かな貯金が、ちょうど入学料と初年度の授業料になることに気付き、大学院進学を決めたのだった。幸いに合格した夜、ふと佐藤先生のことが思い出された。数年ぶりに、唐突に、わたしは先生に電話をした。
あれから20年。先生はご自身の著書とともにわたしの前に現れた。それは文学史を扱ったものではなかったけれど。いや、それ以上に、わたしには衝撃的だった。
先生が書かれたのは、わたしが学部の卒業論文で取り上げ、大学院に進んで10年近く、ずっと取り組んできた『平家物語』についてだった。それぞれ400頁に迫る上下2冊本。
実のところここしばらく、わたしは平家から遠ざかっていた。理由はいろいろだけれど、これから先、もう平家にふれることはないのかもしれないな、と、漠然と思う数年だった。そんなとき、先生が現れた。
「あなた、かつてわたしに語った熱い思いはどうしたの」と問われているような気がした。気付けば、様々な思いを自分のなかに沈潜させて、それを抱えることばかりをしてきた20年。それはそれで無駄ではなかったけれど、もうそろそろ、思いを手放しても良い頃ではないだろうか。いまいちど、自分に活を入れて、まずはこれからの20年、力一杯駆け抜けることにしよう。ずっと忘れていたけれど、わたしの取り柄は向日性ではなかったの?

さてさて、購入はしたものの、まだ読み始めていない不肖の教え子ですが、この場を借りてご本の紹介をさせていただきます。

  佐藤太美『神祇文学として読む 平家物語』上下(東京経済)。

本書は、今年度大佛次郎賞候補作品となられた由。来月の発表が楽しみです。

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佐藤先生のこと(2)

大学4年生になり、高校の国語科教員を目指していたわたしは、夏休みを終えて出身高校に教育実習に出かけた。春の実習と異なり、秋は実習中に採用試験の結果が届くという、何とも間の悪い思いを実習生は経験しなければならない。
実習生の中には、免許のみを手に入れたくて、形ばかりに採用試験を受けた者もいたけれど、教員志望だったわたしは、「不合格」の通知を手にし、心底辛いなかで実習を続けることとなった。
専門科目の力が足りなかったことは勿論だろうが、課題作文のことが思い出された。たしか課題は、「教師になりたいと思った理由」だったと記憶している。いつもなら、作文ひとつを書き上げることくらい、どうということもないはずなのに、なぜかあのときだけは、手が止まって、ことばが出てこない。焦れば焦るほど、なぜなりたいのか、本当になりたいのか、分からなくなってしまった。余白を多く残した作文を提出した時点で、「不合格」は既定のことだったのだ。
あぁ、卒業後、どうすれば良いのだろう。がっくり気落ちしているとはいえ、実習はまだまだ続く。とにかく実習だけは終えなければ。
そんなうつむき加減の下校時、たまたま佐藤先生と会った。降りる駅が一駅違いということもあり、その後も何度か、車中であれこれ話す機会が重なった。今回は試験は落ちたけれど、来年再挑戦するつもりであること、そして夏休み中、卒業論文を書くために、ひたすら机に向かい、カードを取った『源平盛衰記』のこと。古典の話、好きな小説の話、話題は次から次へと広がって、そのときだけは、不合格のことも思わずにいられた。
そして実習終了後、たしか一度、先生のお宅に伺ったような気がする。そのとき先生が、「私、これまで書かれてきている文学史、少し違うと思うの。だからいつか、自分なりの文学史を書くことが夢なのよ」と話された。「自分なりの文学史」、その壮大な夢に、少なからずわたしは驚いた。

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佐藤先生のこと(1)。

ことしの夏、勤務校を会場とした研究大会で、佐藤先生に再会した。
遡ること2ヶ月前、会場校となることが決まってしばらくした頃、ひとりの女性から電話があった。ご自身が書かれた本を、大会期間中、参加者が見られる場所に置くことはできないか、との問い合わせだった。とくに問題もないと判断し、当日ご持参下さいとお応えして電話を切った。
そして大会当日、助手室の扉がすっと開いて静かに現れたのは、かつて出身高校での教育実習の折りに出会った佐藤先生だった。思わず、「さとうせんせーい」と駆け寄った私に、先生はただただ驚かれていた。私にしても、なぜ先生がここにいらっしゃたのか、あの電話の女性が先生だったと気付くまでに、しばしの時間が必要だった。先生は退職を機に心機一転、名前もお住まいも変えられていた。だから電話では気付かなかったのだ。佐藤先生にしてみれば、担任だったわけでも、授業で教えたわけでもない学生を、しかも20年の歳月を経た今、覚えているわけもない。
けれどわたしは、なぜか一瞬にして、胸が詰まってしまった。自分でも不思議なくらいに。
大学を卒業し、いったんは社会に出たものの、それでもやはりと迷った末、大学院に進むことを決めて臨んだ試験。その結果発表の日、ほんの数度お話ししただけの先生に、一方的に電話で合格を報告した。あの電話のこと、そして先生がふともらされた将来の夢。
なんという偶然、いや必然なのだろう。

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2005年11月10日 (木)

橦木町界隈。

10月から学会事務を担当して下さっている I さんと、仕事の引き継ぎがてらおしゃべりしていたら、お住まいは「橦木町」とのこと。
みなさんお読みになれますか、「シュモクチョウ」。名古屋市は東区にあるそうです。
そう言えば、東区には「文化のみち」というお勧めスポットがある、とニュースで見たような気がするなっ?!
そこでふと、「近くに川上貞奴邸がありませんか」と尋ねたら、「すぐ近くですよ」って。さらにさらに驚いたのは、今はお住まいになっていないけれど、代々受け継いでらっしゃるお宅は、明治期の建造物で、「撞木倶楽部」として一般公開されているんですって!!
これは行かねばっ、ぜひぜひ見学を! ということで、文化の日に出かけてきました。
日本の女優第一号、川上貞奴(夫はご存知オッペケペー節の川上音次郎)と、名古屋ゆかりの作家たちの遺品を展示する「二葉館」では、折しも、「貞奴と花子展 ~欧州に羽ばたいた女性たち~ 」という特別展が開催されていました。貞奴は、川上一座のアメリカ巡業で、女優として初めて舞台に立ち、明治33年(1900)パリ万博では、「マダム貞奴」として、一躍有名になったんですよね。
音次郎亡き後、女優を引退した貞奴は、電力王と呼ばれた福沢桃介(福沢諭吉の次女ふさの婿)の事業パートナーとして、当時は東区二葉町にあったこの邸、通称「二葉御殿」に暮らしたそうです。そのお屋敷を、名古屋市は13億円かけて、現在の場所に移転、復元したのです。
かたや「花子」と言うのは、わたしは初めて聞く名前だったのですが、ロダンは彼女をモデルとして、いくつもの作品を残しているのだそうです。他にも二葉館には、城山三郎の書斎が復元してあったり、春日井建に宛てた三島由紀夫の自筆原稿も展示されたりしています。
いっぽう撞木倶楽部には、洋館と和館と茶室とお蔵がありまして、ナント洋館の2階には、ゆったり横になれるバスタブと洋式トイレと洗面所がありました。明治という時代に、いったい誰の発案なのでしょう?! お庭の片隅には二宮金次郎の像があると伺っていたので、どこだどこだと探索したら、お品の良い1㍍ほどの姿で建ってらっしゃいました。青苔がちらほら、長年ご苦労様でございます。
さてさて、今回はお天気がいまひとつだったので、徳川園まで歩くことはしませんでしたが、機会があればぜひ、ぶらり散歩と行きたいものです。

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