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2006年5月27日 (土)

田中美津さん

田中美津さんの講演会に行った。

「タナカ・ミツ」とその名を聞いて、すぐに70年代に思いを馳せる人はどれくらいいるのだろう。少なくとも私が、「リブの時代の伝説の人」としてその名を知ったのは、ほんの数年前のこと。今回、名古屋で講演があることをたまたまネットで知って、好奇心とともに参加した。

ちなみに現在、田中さんの主たるお仕事は鍼灸師。東京・両国で治療所「れらはるせ」を主宰していらっしゃる。ご本のひとつには、「からだがよくなって、「生きてるっていいな」と思う人が増え、それにつれて世の中もよくなったら・・・・・と、治療に励む日々」と書かれてある。朝日カルチャーセンターでは「イメージトレーニング」も教えていらっしゃるとのことで、講演の最後には、ちょっと照明を落とした中でゆったりとした音楽をバックに、美津さんの声を聞きながら「緩む」レッスンがあった。

講演の後半では、この「緩む」ことの大切さが説かれた。緩まないと、いろいろなものに出会えない、感じることができない。からだが緊張してなかなか緩めないなら、まず顔から。いい顔をしているとカラダも緩んでくる。舌を上の歯と歯茎の境目アタリにつけると緩みやすいって。ぜひぜひ試してみて! いい顔をして楽しくなってくると、免疫力も高くなるって。

前半で説かれたのは「選ぶ」ということ。いまの自分のありかたは、自分が選らんだものだということをまず認める。〈私ってかわいそう~〉という被害者意識ではなく、今の自分を引き受けて、それは自分が選んだものだと意識する。そうすれば、他の生活を選び直すこともできるんだ、と考えられる。つまり「自由」になれると。

これは私の単なる思いこみかもしれないけれど、リブあるいはフェミに関わる女性には、そもそも虚弱体質というか、カラダの強くない人が多いように思う。文章を読んでいると、すっごく頑強な姿を想像するけれど、実際には小柄な人が結構多いような。美津さんもとっても小柄。しかも慢性腎炎で、そういう自分のカラダ、ココロの入れものとしてのカラダを元気にして、生きるって楽しいと思えるようになりたかったと。

70年代のお話しもあったけれど、むしろ「今生きている」ことの大切さ、「今ここに生きてある自分がいかに価値ある人間なのか」という自己肯定感の大切さが繰り返し説かれて、とても心地よく楽しい2時間だった。

会場内で販売されていた著書を購入するとサインしてくださるというので、最新刊をさっそく購入。サインしてくださっている間、私は自分のカラダに関してちょっと質問した。予防というレベルではなく、再生とでもいうべき状態だから、いかに「もたせるか」についての話し。美津さんはすぐにいくつかのアドバイスを与えながら、最後に私の顔を見て、「あなたはもうできているから、それについては大丈夫ね!」と言ってくださった。

何ができているか?って。 

さしあたり大丈夫! なのは、笑顔です♪

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2006年5月20日 (土)

近くて遠い50年代。

 昨日学内で「ナショナリズムと近代」というセミナーがあった。特別講師として佐藤泉さん(青山学院大)が「戦後批評のメタヒストリー 国民文学論をめぐって」と題してお話しされるとのこと。ここしばらく廊下に掲示されていたポスターの、「国民文学論」ということばに惹かれて参加した。

 中心的に論じられたのは、50年代(昭和じゃなくってセンキューヒャクね)の政治社会状況、そのとき「国民」「民族」とことばはいかなる意味をもち、何を語るものだったかということ。2006年という今を文節し理解し論じる上で前提としている認識の妥当性は、50年代を問うことで明らかになる面を有する、ということかな。

 話題は多岐にわたり、質問に立った院生たちも臆することなく自らの意見を述べていた。そのなかには韓国や中国からの留学生もいて、昨今の政治的な動きをふまえての発言もあった。いずれも「お説拝聴」という雰囲気のなかったことが良かった。

 そんな2時間強のなかでわたし自身は、いかに自分が50年代のことを知らないか、それを強く感じていた。60年代生まれの私にとって、50年代は近くて、遠い。

 まぁ何事も、知らないことではなく、知ろうとしないことが問題なのだから、これからぼちぼち考えてみることにしよう。

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2006年5月18日 (木)

高階杞一さん

 詩人の高階杞一(たかしな・きいち)さんがご自身のHPの「日々のあれこれ」で『日本語上手。』の宣伝をして下さった。http://www11.ocn.ne.jp/~tkiichi/index.html 

 とっても嬉しい。すでに本書を手にとって下さった方はお気づきでしょうが、私が執筆したところで高階さんの詩を引用させていただいた。刊行後、1冊謹呈したのを受けてのご配慮。ほんとうにありがたい。編集中は直接ご連絡することはせず、交渉はすべて三弥井書店にお願いしていたので、今回あらためてお礼かたがたご挨拶のメールを差し上げたところすぐに返信をくださった。

 もうずっとずっと前のこと、新聞の片隅にその年のH氏賞受賞作の紹介記事が掲載されていた。詩人の名は忘れてしまったのに、『キリンの洗濯』という詩集名だけはずっと記憶にあった。そして3年ほど前、友人から高階さんの詩を教えてもらう機会に恵まれ、そのとき高階さんがあの『キリンの洗濯』の詩人であることを知った。

 何だかとてもすんなりその世界に入って行けた。「なぜ?」と問う必要もなく、すんなりと。 おかしいのに、哀しい。胸がキュンとなる。深い深いところでキュンと音がする。いつかどこかで耳にした微かな響き。年を重ねることも悪くないなと思わせてくれる、ちょっとほろ苦い世界がそこにある。 

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2006年5月13日 (土)

ネットでこんにちは。

 さて問題です。次の三つの曲を歌ったグループ名をお答え下さい。

1,「待つわ」  2,「完全無欠のロックンローラー」  3,「愛はかげろ」

 曲名さえ聞いたことがない、という方から、サビは歌える、グループ名も正確に答えられる、なめんじゃねぇ、通しで歌えるぜ!という方まで、いろいろいらっしゃることと思います。いったい何が始まったのか?って。・・・・・実は今週、これらの曲を手がけられた方とネット上で出会う機会に恵まれたのです。

 しかも!です。その方(野口義修さんとおっしゃる音楽家)は、わたしと高校・大学が同じ。つまりはダブル同窓と知って、ちょっとカンゲキなのであります。あっ、高校・大学に音楽科があったわけではありません。あったのは、音楽科ではなく食物科。代表的な卒業生には、平井太郎さん(←江戸川乱歩の本名)、「命のビザ」の杉原千畝さんがいらっしゃいます。まっ、いずれも旧制中学時代の話ですけれどね。

 さてさて、どうして野口さんと「はじめまして」となったのか、その詳細はおくとして、わたしのHPをご訪問くださった野口さんが、『日本語上手。』に興味を持って下さって、さっそくアマゾンで検索。ところが画面上には空しく「在庫切れ」の文字が・・・・・。そこで直接お問い合わせ下さったというわけです。ほんと、感謝・感謝!

 それにしても、です。なぜアマゾンではずっと「在庫切れ」なんでしょう(涙)。どうやら取次店さんの事情によるらしいのですが。とはいえみなさん!ガッカリされる必要はありません!! bk1やヤフーブックスなら、すんなり買えます。なんせ「売るほど」あるのですから、どうかご遠慮なくドンドンご注文下さい。

 ちなみに、です。野口さんも『作曲本』というご本を出版していらっしゃいます。ナント、紀伊国屋さんのランキングでは、音楽関連本でずっと1位の売り上げを誇っていらっしゃる由。もう、4刷ですって。あぁ、羨ましい~。

 ♪野口義修 『作曲本 メロディーが歌になる』(シンコーミュージックエンタテイメント、1,890円)♪

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2006年5月 7日 (日)

いかにもの雨。

 今日も相変わらずタラ~っとしております。外は久々の大雨。GW最終日、家でのゴロリンを勧めているかのようです。

 さて先日、『論座』6月号掲載、信田さよ子さんの「江原啓之と前世ブームが意味するもの」を読んだ。そうか、「スピリチュアルカウンセラー」としていま人気の江原啓之さんの熱狂的ファンを「エハラー」って言うんだ。ふ~ん。「オーラの泉」はたまに見るけれど(このところ、始まる前に夢の中へ、の日々)、〈巫女〉美輪明宏さんのパフォーマンスの方に私は惹かれるからな。(余談だけど、幸田文さんの対談集に若き日の美輪さんとの対談が掲載されていて、面白いです)。あの声のバリエーション、年齢を超えた存在感、まさにプロ。

 それはさておき、である。以前、韓流ブームについて論じたさよ子さん、今回は江原ブームの背景にあるもの、つまりはそれを必要とする人(主に30代の働く女性)たちが抱える問題を論じている。

 息詰まる日常の中で悩む彼女たちの問いかけは、常に外向きではなく内向きに発せられる。そして最終的に「自己責任」へと回収されていく。「構造改革」の流れは、自己責任の強調、規制緩和、自由の拡大、個人主義の確立によって不安的な社会を乗り切ることを目指すものであり、30代の働く女性達が感じる息苦しさは、こうした時代の流れを正面から受け止め内面化した結果なのではないか、と。

 そんななか、過剰な自己責任から彼女たちを解放するものとして登場したのが江原ブームなのではないか。さよ子さんによれば、その特徴は次の三つに集約される。

 ①いかなるときも自分を守ってくれる存在としての守護霊という援助者。②いまの自分は宿命によって定められてはいるが、どのように宿命を実現していくかという運命は自分で換えることができる。大いなる決定の細部に微調整可能な自由をささやかに保障することにより、適度な参加度を高め達成感を与える。わずかの関与で責任を果たしたことが承認され、あとは大きな宿命に身を任せる安楽だけが待つという自由と決定の微妙なバランス。③過去世・前世という未踏の領域を設定することで、あらゆる歴史物語に自分を繋げることができる。この変幻自在、広大無辺な前世をめぐるドラマ性というタイム・トリップ感。同時にそれは、一種のアイデンティティーの再構築であり、その意味で江原は、ポストモダン的、構築的自己を示したことになる。

 こうした江原さんの言説により、彼女たちは過剰な自己責任から解放され、ささやかな心の平安を得る。だが・・・と、さよ子さんは続ける。

 前世にトリップしても彼女たちの置かれた状況は変わらぬばかりか、実は何かが看過されているのではないか。それは手を伸ばせばふれられる他者であり、彼女たちが生まれ育った家族、そしていまの日本社会だ。内向きの問いの限界を超えることがエハラーになることだけなんて、悲しすぎる、と。過剰な自己責任がなぜ強調されるようになったのか、働きながらなぜ未来がみえないのか、なぜ家族の中でこれほど苦しいのかといった外向きの問いを実は抱えているにもかかわらず、それに直面できないでいるのは彼女たちだけの責任ではなくて、親の世代をも含めた社会全体の問題ではないのか、と。

 う~ん、内向きにはなれない私としては、どうなのかな~? やっぱり生き延びるための方法(理論)を学ぶのが早道って気がするな。

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2006年5月 6日 (土)

「気高さ」という自己欺瞞力。

 やっぱり連休は良いね。あっという間に『ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹』を読み終えることができた。ソフィス・コッポラが監督した映画『ヴァージン・スーサイズ』(1999)もぜひ見てみたい。巽孝之さんが、姉妹一家の崩壊とデトロイトの崩壊、そして国家アメリカの崩壊が連動していることを文庫本の解説に記している。ただ、70年代アメリカに漂う空気を身近に感じられない私には、いまひとつそのあたりがピンと来ないところが残念。

 むしろ個人的には、姉妹が〈教師の娘〉であることに着目し、「中流階級の娘」が抱える問題という点から、その作品世界を〈聖職者(牧師)の娘〉たちの物語である『若草物語』と重ね合わせ違いを論じた藤森かよこさんの指摘に親近感を覚えた。

 かよこさんの論文は、「欺瞞なくして中流階級の娘は生き抜けない 『ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹』から照射する『若草物語』」という題目が示すとおり、『若草物語』が読まれ続けられた理由のひとつに、姉妹の向日性の自己欺瞞力があることを明らかにする。「より良く生き抜くために、退廃と荒廃と自閉に陥らぬために」真の自尊心とともに現実の矮小さを乗り越えるうえで必要な幻想。それをかりに「気高さ」と呼ぶならば、『若草物語』は「それをの資質を持つのが通常は困難な立場の人間こそ持たねばならない光と力」であることを教える点で、少女たちのバイブルたり得てきたと論じる。

 なぁ~んて書きながら、実はわたくし『若草物語』を読了しておりません。あの冒頭の場面で、挫折しました。二重苦?〈教師の娘〉でかつ〈聖職者(っていうか、つまりは坊主)の家系〉でありながら、なんとか生き延びております。感謝、感謝。ノーテンキな性格と、ひとりっ子ということが幸いしたのかも。もう、幻想は抱き放題だし、「女らしさ」はほとんど求められなかったし。でもおそらくは、生きるエネルギーが強かったから、というのが最たる理由かもしれないな。

 そうそう、かよこさんの論文が収められているのは、高田賢一編著『シリーズ もっと知りたい名作の世界① 若草物語』(2006年2月、ミネルヴァ書房)という綺麗な装丁の本。表紙を飾るマーチ家四姉妹の絵など、中高年には懐かしい〈古き良きアメリカ〉を思わせる。参考文献と共に作者オルコットの「ゆかりの地へのガイド」なんぞも付いている。購入するのは、団塊の世代以上のお金に余裕があって海外旅行にもすんなり出かけてしまう人たちとのこと。たしかにね~、なっとく。

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2006年5月 5日 (金)

ようやく交換、そしてまた交換。

連休のなかび、部活に出かける子どもに合わせて起床、お弁当を作って送り出す。

 昨日は終日家の中に籠もっていたので、今日は少し歩こうとまずはガソリンスタンドにクルマを置きに行く。いや~ずっと行かなくちゃ、換えなくちゃって思っていたんだけれど。実はいまだスタットレスタイヤを装着していたんだな。自力でしようにも、脱着のやり方が通常と少し違うので、大枚はたいてスタンドのご厄介になったというわけ。

 1時間はかかると見越して、そこから片道20分弱、散歩がてら本屋へ。さすがにGW中のしかも午前中、空いてる、空いてる。石田衣良を手に取る。・・・・う~ん、買うのは次にしよう。なかなか小説が読めないここ数年。まずはいま手元にあるJeffrey Eugenides『The Virgin Suicides』(邦題『ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹』)が先だ。

 さて1時間以上過ぎたからと、同じ道を歩いてスタンドへ。

 店員さん曰く、「このクルマ、特別なエンジンのかけ方がありますか?」「はぁ?!」 「エンジン、かからないんですけど」「えっ、そりゃきっとバッテリーが上がったんだと思うんですけど・・・・」(ふつ~それを一番に考えないか。特別なエンジンのかけ方って、たとえば呪文唱えたりするってこと?)

 というわけで、他のクルマに繋いでもらったら、すぐにブルルン。やっぱり、「テクマクマヤコン」じゃないよね(って古いか)。 バッテリーは取り寄せになるから、交換は連休明けね。店員さん曰く、「自宅に着くまでエンジン切らない方が良いですよ」(そりゃ、そーでしょ)。

 はてさて、午後からはまたPC相手のリスト作成。BGMはJames blunt、続いて久々の松たか子。

 まだまだ先は長いな~~。                                                       

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2006年5月 4日 (木)

明日は子どもの日。

 辻真先さんのホームページを見ていたら、お宅の前に出現した鯉のぼりの写真が掲載されていた。日頃、下から見上げることはあっても、泳いでいる姿を間近に見ることはないので新鮮だった。端午の節句の飾りも掲載してあったので、そういえば「ショーキ」ってどう書くのだっけ、と調べていたら、菖蒲湯の話が載っていた。

 その解説に、かつて武士が菖蒲を好んだのは、「ショーブ」が「尚武」(武を尚ぶ)に通じるからだと書かれてあった。あっそうそう、これまたそういえばである。

 昨日たまたま見ていた『日本歴史 絵入豪傑詳伝』(1894年)の扉に大きく「尚武」と書かれていたのは、そうか、これなのね。作者の名は「鉄壁楼金城」。いかにもお堅そうで、ちょっと笑えます。

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